Columnコラム
スポーツの世界において、「選手」という存在は疑いなくその中心に位置するものだろう。しかしスポーツの世界は当然、それだけで成り立っているわけではない。グラウンドで躍動する選手たちを「光」と表現するのであれば、何倍もの数の「影」の存在がいて、彼らの力無くしては、この世界を保ち続けていくことは不可能である。
今回は、30余年の日本ラクロスの歴史の中で「選手」としてではなく、「審判」として、「理事」として、そして「ラクロスを愛する者」として、ラクロスの発展に寄与してきた1人の男性に話を伺ってきた。
【人物紹介】
第一章〜志水研太郎という男〜
ラクロスとの出会い 新しい世界への挑戦からだった
私がラクロスを始めたのは1992年のことです。きっかけは些細なことでしたが、高校時代の先輩などが当時ラクロスをやっていて、その姿を見て「あ、俺でもやれるかな。」と思い、ラクロスを始めました。
当時の日本では、ラクロスはもちろんのことほかのマイナースポーツも見る機会が多くなく、スポーツと言えば「野球」のような時代だったのですが、親の影響もあり小さい頃からアメフトやホッケーの試合に触れてきた私にとっては、ラクロスという全く新しい世界に飛び込むことに大きな抵抗はありませんでした。
ラクロスの文化といえば何かと聞かれれば、きっと多くの人が、「さまざまな人たちと交流できること。」、「さまざまなチャレンジができること。」と言うと思います。私がラクロスに出会った当時からその文化は既にあって、中高一貫校で長い間同じ友人と時間を共にしてきた私にとってそれはとても新鮮なものでした。当時から、大会のプロモーション班や広報委員会などの活動には積極的に参加していました。周りには、そういった活動を面倒がる人もいたのですが、私にとっては純粋に面白くて、ワクワクする感情があったのだと思っています。
審判との出会い 切っ掛けは半ば強制的(笑)
大学3年生で日本学生ラクロス連盟(以下、学連)の副委員長になったときに、4ブロック4校制だったリーグ戦が、ラクロスのレベル向上のために2ブロック8校制になりました。そうなると、当然試合数は増え審判員の数が不足することになります。「自分たちで試合数を増やしたのだから、責任をとっていこう。」と、当時の学連のメンバーと話した私は、そこで初めて「審判」と出会うこととなります。
今思い返してみれば、審判はやりたかったというよりは、半ば強制的にやらざるをえない状況だったんですね。
そのころは1日に3試合審判をするということはザラにあって、毎週のように朝設営をするために会場に集まり、3試合審判をして、撤収をして帰る生活をしていました。江戸川区臨海球技場から見たディズニーランドの花火は当時の思い出ですね。
そして、世界へ 嬉しさと悔しさが自分を育ててくれた
それから数年が経ち、1999年のU19世界大会で初めて世界を舞台に審判をすることになりました。この大会では多くのことを学びましたが、ここでの経験から「世界」を舞台に審判として戦っていくというイメージがついたような気がしていて、ここから3年連続で国際大会に審判として派遣されていくことになりました。
2002年の大会から2018年の大会まで、5大会連続でWorld Championshipに派遣されたのですが、そのなかでも2014年の大会、2018年の大会は私の中でとても印象に残っています。
4大会目となる2014年のDenver大会は、目標としては決勝の試合の審判として中に立つ、最低でもベンチマネージャーという意気込みで臨みました。
順調に大会期間中はパフォーマンスを発揮していくことができたのですが、結果として決勝戦はベンチマネージャーとして派遣されました。連絡が来た時は、正直に嬉しさ半分、悔しさ半分といったところでしたね。
後で理由を聞いたのですが、決勝戦の主審で入ったオーストラリアの審判は足を痛めていたそうで、試合中に審判ができなくなる可能性があったそうです。それで、本質的なベンチマネージャーの役割として、彼の代わりが務まるのが私だったと伝えられて、それは嬉しかったですね。
新しい価値観 多くの方に支えられてきたからこそ、後輩へのオモイが芽生えた
4年間という期間はやはり長く、この大会でここまで評価されることができた私は、4年後の2018年大会まで続けるかどうかについてかなり悩みました。当時は毎日トレーニングをして走れる状態をキープしたりしていましたから、それをもう4年続けられるかといった不安もかなりありました。年齢的にも、すでに40代半ばでしたからね。
そんな状態でいたのですが、2018年大会に挑戦する覚悟を決めたのは「後輩」の存在でした。2014年のDenver大会で世界最高峰の試合を最も近いところから見ることができた私にとって、この景色を後輩たちにも体験してほしいという思いが純粋にあって、それで腹を括りトライアウトを受けることを決心しました。
2018年の大会で私が最初に主審をしたのは、香港対ポーランドの試合でした。この試合は開幕戦よりも前の時間に設定されていて、審判としては「この大会の基準を決める」試合として位置づけられていました。2006年や2014年の大会は、「決勝戦の審判がしたい。」といった、いわば野心のようなものを持って挑んでいた。けれどこの試合の主審になった時に、私が決勝戦の審判をすることをよりも、そういう経験ができる人がこれから1人でも増えてくれることが私の喜びだという感情が強くなり、ここでこの大会が自分にとっての最後にするという決心がつきました。1999年に国際大会の審判デビューをしてから20年目のことでした。
最後の試合は、長年にわたって共に戦ってきた旧友たちと一緒に審判をさせてもらい、共にお互いに苦労を労いました。この時の熱い感情は忘れることはないと思います。私の審判としての人生は、いつも挑戦の連続でした。そのすぐそばには共に戦ってきた審判のチームメイトや、選手として戦っていた日本代表の選手たち、同じ日本を背負う審判の後輩たちがいて、私は多くの人に支えられ、刺激を受け、だからこそ20年もの間、世界の舞台で挑戦をし続けることができたのだと思っています。
更なる挑戦 ラクロスは「挑戦」を繰り返せる世界である
これから世界を舞台に戦っていきたいと思っている人にとっても、まさに今ラクロスを始めようとしている人にとっても、ラクロスの世界には「挑戦」ができる環境が十分に備わっています。だからこそ、小さなことからでも少しずつ「挑戦」を繰り返していってほしいと願っています。様々な挑戦ができる、それがラクロスの最大の魅力だからです。その積み重ねの先にある、素晴らしいものを掴んでくれる人がこれから一人でも増えていってくれることが、私にとって何よりの喜びです。
Part2「審判から見た世界のラクロスについて」 Coming soon…
Text by ラクロスマガジンジャパン編集長 佐野清
日本ラクロス協会広報部 LACROSSE MAGAZINE編集部